奈良時代の高僧・行基により発見されたと伝わる石川県加賀市の山中温泉は、松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れ、山中漆器や「山中節」を舞う艶やかな芸妓衆でも知られる伝統と文化の息づく温泉地。![]() |
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引用文からも感じられるように、それまで「大人の温泉街」でもあった山中温泉は、索道事業の開始とともに、アウトドアスポーツであるスキーに着目。 イメージ転換の期待を込めて水無山の山頂にスキー場を建設しました。この背景には昭和30年代の第二次スキーブームがあるように感じます。 例えば、スキー場のTバー・リフト自体が滑走式索道という区分そのものであるように、索道とスキーは表裏一体の関係を保ちながら発展を遂げてきました。 爆発的なスキー人口の増加をもたらした、昭和末期から平成バブル期の第三次スキーブーム以前も、国内では2度の大きなスキーブームがありました。ひとつは戦前の昭和初期、そしてもうひとつが山中温泉にスキー場が開業した昭和30年代です。 |
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戦前の第一次ブームの頃のスキーは、レジャー色よりスポーツ色が濃く、特定の地域を除いてスキー場の数も少なかったため、山スキーの比率が高かったようですが、この時代からゲレンデスキーが主流になり全国各地で次々とスキー場開発が始まります。 水無山スキー場は比較的早い時期に開業したため、開業後数年間は順調に利用客が訪れたそうです。 また、山頂には小規模ながら観覧車・遊覧電車などの遊具を備えた遊園地(水無山山頂遊園地)や、展望台・レストランなどの施設があり、昭和30年代はかなりの賑わいをみせていたようです。(ダイゾウさんのサイトで全盛期の水無山遊園地の貴重な写真を見ることが出来ます。) しかし、昭和40年代に入る頃から、近郊にあり設備の充実した獅子吼高原スキー場や、1970年(昭和45年)以降に白山麓に相次いでオープンしたスキー場群*注1に利用客が流れ、1978年(昭和53年)10月、ついに索道が運休、スキー場も休業に入ります。左上のパンフレットの写真は索道、スキー場ともに末期に近い昭和50年頃のものです。 やがて1981年(昭和56年)4月に名鉄、山中町、山中温泉旅館共同組合の出資会社である株式会社 ![]() |
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【訪問記】 2007年12月 現在、水無山にあった駅舎は山頂・山麓とも完全に撤去されていますが、山頂には駅舎と連絡していた展望台がそのまま残されています。未だに展望台としては微妙に機能しているとも言えそうですが、やはり遺構と呼んだ方がふさわしい佇まいです(写真@)。 展望台の写真にマウスを乗せると、山頂駅との連絡部分の写真に変わります。駅舎があった写真中央奥は深い藪で、遺構は何もありませんでした。 山頂遊園地があった場所には遊具施設関連と考えられるコンクリ塊が所々にあり、藪の中に遊覧電車のトンネルらしき遺構が残っていました(写真A)。 山麓駅の名残として、医王寺そばの薬師橋の脇に山麓駅舎へのアプローチだったと考えられる階段が残っています(写真B)。 階段を上りきった所は行き止まりの小さなスペースになっていて、そこには赤錆びた照明灯と水飲み場(噴水?)の遺構が残っていました(写真C)。 山麓駅は2つの建物(発券所・ゴンドラ発着所)で構成されていたようで、ここは発券所の建物があった場所のようです |
写真@ 写真A 写真B 写真C 写真の左奥が発券所があったと推定される場所。(マウスを乗せると遺構の写真に。) |
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なお、山頂の北側にあったゲレンデは、道路一本分を残して深い藪と潅木(植林された様子)に覆われていて、一基あったというリフト(水無山スキーリフト:1958年架設)の位置も判然としません。見たところコース長300mにも満たない小さなゲレンデだったようで、歩いてみた感じでは傾斜は10〜20°くらいの初中級向きゲレンデだったと思われます。 今回の訪問では最初、山麓駅舎の位置が判らず、医王寺の周りをウロウロしていると、ちょうど近所の方が駐車場に車を入れているところに遭遇したので尋ねてみると、「下の駅へは、お薬師さん(地元の人は医王寺をこう呼ぶ)の階段から真っ直ぐ行って少し降りたところから登ったんや。」と教えてくれました。 私が調子に乗って持参した古い地図や空中写真(笑)のコピーなどを取り出してロープウェイやスキー場のことについて尋ねると、その方は親切に教えてくれ、最後に「なんだかずいぶん変わった研究しとるようやね。」と言って笑っていました。 毎回この「へんてこ過ぎる質問」を地元の人にする時が一番恥ずかしいです; |
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*注1 鳥越高原大日スキー場(1970年開業)・白山白峰スキー場(1971年開業)・白山一里野スキー場(1977年開業) |