失われたロープウェイ

高塔山ロープウェイ(若松ロープウェイ)
  
北九州市の北西部に位置する若松は、かつて筑豊炭田の石炭積み出し基地として、日本一の石炭貨物扱い量を誇った街。

石炭から石油へのエネルギー転換により、筑豊炭田は衰退を余儀なくされ、若松の港からも石炭を満載した貨車や船の姿は消えましたが、近年では「響灘ハブポート構想」や「北九州エコタウン」などの事業の中核となる地域として新たな発展が期待されています。

高塔山ロープウェイ
昭和30年代の絵葉書より。
石炭は明治維新以降、国内工業の主力エネルギーで、昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結後も、戦後復興と朝鮮戦争の特需景気による重化学工業の拡張に石炭生産が追いつかず、さらなる増産が求められていました。

当時石炭は「黒いダイヤ」とも呼ばれ、国内有数の港湾都市として隆盛を極めていた1950年代の若松には、雇用と繁栄を求めて全国から人々が集り、街は空前の活況を呈していたと云われています。

今回紹介するのは、そんな「日本のゴールド・ラッシュ」を迎えていた若松で開業した索道で、その時代背景を解くキーワードは「エネルギー革命」です。



右肩上がりの成長を続けていた国内の石炭産業は、特需景気が一段落した1953年をピークに、海外からの輸入炭の増加や値引き競争などにより低迷をはじめます。

2年後の1955年の神武景気*注1によって一時的に盛り返しますが、1957年頃から国内でも徐々に石炭から石油へのエネルギー転換がはじまり、石炭需要には再び下降の兆しが現れはじめます。

1958年(昭和33年)、洞海湾を見下ろす高塔山(標高:124m)の山頂と山麓間の水平長307mを結ぶロープウェイが開業します。

このロープウェイは高塔山ロープウェイと呼ばれ、当時は珍しかったロープウェイに県外からも家族連れや若者を中心とした多くの利用客が訪れ、盛業が続きます。

地元の公益法人の事業としてスタートした同索道は、開業から4年後の1962年に開催された博覧会の会場に高塔山公園が選ばれたことから、若松市注2に譲渡され、会期中は博覧会の来場者輸送に活躍します。


若戸博会場案内図。*注3

この博覧会とは、若戸大橋完成記念 - 産業・観光と宇宙大博覧会(略称:若戸博)のこと。

洞海湾を跨ぐ当時東洋一の吊橋として建設された「若戸大橋」の完成を記念して福岡県・若松市・戸畑市の主催、総理府をはじめとした各省庁、各国大使館、国鉄および各公社、NHKほか民間放送局や新聞社などの後援による産業・観光・文化・宇宙科学をテーマとした大博覧会でした。

若戸博は、若戸大橋開通の2日後の昭和37年9月28日から11月25日までの約2ヶ月間、若戸大橋戸畑側橋脚一帯の戸畑会場と、高塔山公園一帯の若松会場で開催され、約142万人の来場者が訪れ大成功のうちに会期を終えました。

しかし、この若戸博は同時に、長く続いた若松の「石炭時代」の最後のビッグ・イベントでもありました。

博覧会が開催された1962年、前年の国会で打ち出された原油輸入の自由化案に対応した石油業法が制定されたことによりエネルギー転換は一気に本格化し、全国の炭鉱は壊滅的な打撃を受けて閉山が相次ぎます。

それからわずか10年後の1972年までに、1957年の時点で176あった筑豊の炭鉱は、1坑を残して全て閉山され、筑豊炭田を後背地としていた若松の「石炭時代」は終焉を迎えます。

高塔山のロープウェイも昭和40年代に入ると、若戸博によって山頂までの自動車道路が整備されたことによって、次第に利用者が減少し、やがて1970年に運休、翌1971年(昭和46年)に廃止されました。


【参考文献】

筑豊石炭鑛業史年表
若戸博出品者名簿
若松市史第2集
社團法人若松石炭協会五十年史
西日本文化協会    1973
若戸大博覧会事務局  1962
若松市役所       1959
若松石炭協会      1957

【訪問記】 2008年9月

山頂駅の河童駅・山麓駅の公園駅ともに、駅舎は索道廃止の翌年に撤去されたので、現在その遺構はほとんど残っていません。

右の写真は現在の高塔山公園の展望台付近の様子。写真の向かって右側の建物が展望台(高塔山センター展望台)で、左が「かっぱ地蔵」のお堂。

次の図は1962年当時の展望台周辺の地図。図のように河童駅のロープウェイ駅舎は「かっぱ地蔵」側を底辺とした逆L字型をしていました。


かっぱ地蔵(左)と高塔山センター展望台


博覧会の案内地図より。

下の写真は、同じ場所を別アングルから撮った写真。木に隠れていてわかりにくいですが、写真の右上のトンガリ屋根が、かっぱ地蔵のお堂の屋根です。写真中央のグリーンの柵の向こう側が駅舎の正面入口で、南東方向にゴンドラ発着所が延びていました。

北側から見た河童駅跡地。ゴンドラ発着所は左奥に向かって下の道路の裏手まで延びていた。

跡地にはコンクリ製の階段や基礎が残るだけで、特に大きな遺構はありませんでした。ちょうど私が訪れた時、駅舎跡地付近で造成工事がはじめられていたので、近いうちに何か施設が出来るのかも知れません。

山麓の「公園駅」があった場所は、高塔山の登り口の横にある「佐藤公園」という庭園公園の入り口付近で、こちらも何も残っていません。

公園駅があったと云われている場所。
公園で散歩中の地元の方が「下の駅は、このへんだったよ。」と教えてくれたのが、右上の写真の場所です。

次に、若戸博の若松会場跡地についても少し触れておきましょう。

戸畑・若松両会場をあわせて全国の企業・自治体などの32の展示館をはじめとした60の施設が造られた若戸博は、その展示もロケット科学館・宇宙開発館・宇宙医学館(!)など「20世紀の夢がいっぱい」といった感じの内容だったようです。

博覧会の開催前に恒久的な施設として造られ、会期中も会場施設の一部としての役割を担った展望台・かっぱ地蔵堂、野外音楽堂、噴水池などは、今も健在ですが、会期終了後の撤去を前提に造られた展示関係施設は、今は跡形もありません。

現在の高塔山公園の案内図と、博覧会の若戸会場の配置図と照合してみると、今の「県木の森」が「こどもの国」という観覧車・豆汽車などの大型遊具ゾーン。野外音楽堂の隣にあるプールは「全国観光と優良物産館」の跡地。

公園入り口すぐの芝生エリアには「児童文化館」「かっぱ館」「総合開発郷土館」「サイクル館」が、現在の公園売店(かっぱの里 高塔庵)の正面付近に「若松産業館」「ガラス館」があったようです。

また、公園の北側の、山麓方面・大谷町方面・仏舎利塔方面に続く十字路に会場正面アーチがあり、そこから公園入口までのメインストリートには、自衛隊の屋外展示場と「防衛館」「石炭館」「海運館」「生活文化館」が続いています。

会期中の会場の様子と若戸大橋の開通式典は、映画「社長漫遊記 1963年/東宝」で観る事ができます。

劇中、 主演の森繁久弥扮する「社長」と幹部社員一行が、博覧会旗のはためく高塔山展望台から若戸大橋を眺めて、「いや〜まったく絶景かな、絶景かなですなぁ。」と盛り上がるシーンがありますが、ここからの眺めは確かに素晴らしいです。


高塔山展望台から見た若戸大橋&洞海湾*注4。

ちなみに若松は作家の火野葦平の出身地なため、同氏の作品を中心にかなり多くの映画やドラマの舞台になっているようです。というサイトにそれらの一覧があり、その中に「宇宙大怪獣ドゴラ」なる1964年製作の特撮映画があったので、早速チェックしたところ運行中のロープウェイ搬器と、公園駅の鮮明なカラー映像が登場するので驚きました。



ところで今回のレポートには、度々「かっぱ」とか「河童」という文字が出てきて、地元の人以外は「?」だと思うので(私も最初そうでした)説明すると、高塔山には河童の伝説があり、毎年かっぱ祭りがおこなわれるのだそうです。


索道データ
名称 高塔山ロープウェイ
事業者 (財)若松観光開発協会
→若松市→北九州市
所在地 福岡県北九州市若松区
山頂駅名称 河童
山麓駅名称 公園
開業 1958年8月1日 
廃止 1971年 
索道の方式 3線交走式
水平長 307m
傾斜長 317m
高低差 93m
支索の最急勾配 24°
支柱(基) 2
搬器の種類・数 箱型 2
搬器の名称 げんかい/どおかい 
最大乗車人数 31人
施工 安全索道

*注1 神武景気:
1955年から2年間続いた好景気。いわゆる「高度経済成長」の幕開けと位置づけられており、 エネルギー革命と高度経済成長期は、ほぼ同時にやって来たことが解る。

*注2
1963年、小倉市・戸畑市・門司市・八幡市・若松市の5市は新設合併によって北九州市となった。

*注3
計画段階で描かれた物らしく、若松会場の遊具ゾーンなど一部の施設の配置が実際と異なる。

*注4
洞海湾は、高度成長期に北九州工業地帯の発展と引き換えに著しく水質汚染が進んだが、自治体や企業の努力により、現在は再び元のきれいな海の姿を取り戻している。

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