二見浦旅客索道

以前お知らせした通り、今回と次回の2回に分けて今まで当サイトでは扱わなかった戦前に開業した普通索道と、代表的な2つの路線の廃線跡を特集します。

【戦前とは】

戦前とは、国内では一般的に1941年(昭和16年)の太平洋戦争(第2次世界大戦)の開戦以前の時代のことを指します。

戦前のモノクロ写真からは古き良き時代を感じるというよりも、その「色の無い世界」に、暗く・不穏な時代が反映されているような印象を受けてしまいますが、戦前・特に昭和初期の国民の生活水準は必ずしも低くなく(*注1)、ある意味、優雅な時代だったようです。

当時の日本は「大日本帝國」としての政治・外交がおこなわれていた時代ですが、1941年の開戦より以前に書かれた小説などを読むと、庶民の感覚や暮らしぶりは意外に現代に近いことに気づきます。

開戦を境にやってくる、戦中から戦後にかけての軍事統制・食料難・物不足という圧倒的なイメージが強すぎて、「第二次世界大戦より前、明治・大正より後」の昭和初期という短い時代は、現代人にとって推し測ることが難しい、謎めいた時代なのかも知れません。

今回紹介するのは、戦前の優雅な時代に開業し、戦時における金属供出によってわずか10年で廃止された索道です。


> 二見浦ロープウェイ(二見浦旅客索道)




日本全国に8万以上ある神社の殆どを統括する神社本庁が本宗(ほんそう)として仰ぐ、三重県伊勢市の神宮(通称:伊勢神宮)。

江戸時代、伊勢参り(お陰参り)は多くの庶民にとっての一生に一度の夢であり、全国から大勢の参詣者が徒歩で伊勢を目指しました。その伊勢神宮の至近に位置し、神宮参詣者の宿泊地として栄えてきたのが二見浦(ふたみがうら)。

ヨーロッパの富裕層向け高級リゾート


1870年(明治3年)の大教宣布を背景に、伊勢の鉄道交通は早くから発達し、1894年(明治27年)にはのちに国営化され省線(現・JR)参宮線となる地元私鉄の参宮鉄道によって津 - 山田(現・伊勢市)間が開通します。

その後も鉄道各社が伊勢進出を図り、1932年(昭和7年)には現在の近畿日本鉄道(近鉄)の直系の前身である大阪電気軌道(以下・大軌)傘下の参宮急行電鉄により、上本町(大阪上本町) - 宇治山田間で直通特急電車が運行を開始。

これにより大阪から伊勢への日帰り参詣が可能になり、参詣者は急増します。

この年、地元三重・伊賀上野の実業家によって二見の名勝:夫婦岩(めおといわ)近くの伊勢湾を見下ろす音無山という小高い山に、交走式の索道が架けられました。これが、二見浦ロープウェイです。


二見浦ロープウェイ開業の翌年である1933年(昭和 8年)、日本は国連を脱退、国際社会からの孤立を深めていきますが、まだ国内は戦時体制下にはなく、二見は「伊勢参り」と「朝熊詣で(後述)」、また参詣に併せた観光で訪れる人々で賑わいをみせていました。

音無山遊園
戦前の音無山遊園
二見町・賓日館所蔵の展示絵葉書より

それから6年後の1938年(昭和13年)、国内が日中戦争での戦勝ムードに沸く中、大軌傘下の関西急行電鉄により、伊勢からの名古屋乗り入れが実現。

伊勢周辺はさらに賑わい、同ロープウェイも最盛期を迎えます

しかし、既に時局は太平洋戦争に向かって突き進んでおり、開戦を迎える1941年、兵器生産に必要な金属資源の不足を補うことを目的に公布された勅令第835号に基づく金属類回収令により、観光を主とした路線であり、軍事上重要度が低いとして二見浦ロープウェイは「不要不急路線」の指定を受け、翌1942年(昭和17年)に廃止されました。

現在、音無山の展望台の傍らに建つ、「音無山遊園」と題された石碑の碑文には音無山の由来と、かつてこの山にあった遊園地:音無山遊園、そしてについてが、以下のように記されています(グレーのフォントが引用文、改行は管理人)。


音無山は標高一一九・八m、倭姫命(やまとひめのみこと)ご遷幸(せんこう)の際、ご接待役の佐見津日女(さみつひめ)が口が利けず、倭姫命のご質問に何の音沙汰もなかったことから、佐見津日女の住家近くのこの山を「音無山」と呼ぶようになりました。
             −中略− 
昭和七年(一九三二)、海岸から海外スキー情報が架けられ、山頂には日の出遥拝所や観月台、食堂、猿・野鳥が飼われていた小動物園、カワラケ投げのアトラクションなどがあり、ちょっとしたレジャーランドでした。しかし、太平洋戦争で昭和十七年(一九四二)、海外スキー情報は供出され、やがて食堂も閉鎖、動物の檻も撤去されてしまいました。

現在は遊歩道が整備され、日の出の遥拝や桜の花見、紅葉狩り、ハイキングやウォーキングで賑わっています。

− 引用終わり



【訪問記】 2011年6月

戦前の索道・ケーブルカーには、神社・仏閣への参詣・参拝者の輸送を主な目的とした「参詣路線」が多いのが特徴。

今回の索道も伊勢という場所柄、参詣路線を連想しますが、同じ伊勢にあった朝熊登山鉄道の鋼索鉄道区間(*注2)が金剛證寺への参詣を目的とした路線だったのに対し二見浦ロープウェイは前述の通り、観光向けの路線という位置づけでした。

二見浦の索道は今から約70年前に廃止された路線なので山麓駅があった場所には現在は旅館が建ち、索道の名残りはありませんが、音無山の山頂にはコンクリ製の山頂駅ゴンドラ発着所の基礎が遺されています。

正面の山が音無山。山麓駅は右の建物(旅館・海洋楼)の位置にあった。

索道の場合、植林などをおこなわなければ廃止後20年くらいは路線跡が一本の筋となって山肌に残りますが、さすがにこれだけ時間が経つと、山麓駅があったという海岸近くの通りから望む音無山の山肌にその痕跡はまったく見られません。

不要不急とされ、金属供出の名目で廃止を余儀なくされた鉄道・鋼索鉄道・索道の路線の多くは、解体されたまま実際にその金属は使われることなく、レールなどが野ざらし状態だったといいますが、二見浦海外スキー情報の場合も索道施設は解体された状態で戦後も暫く山中に放置されていたそうです。

復活を望む声もあったそうですが、果たされること無く、資材も何処ともなく運び去られたと云われています。

山頂の駅跡はすぐにわかる場所にあり、草生した土台から、今まで訪れたどの索道廃線跡よりも古いことを実感します。

土台の上に立って、GPSで位置を確認したところ、ゴンドラ発着所は山の比較的内陸の部分の、しかも三角点に近い場所に建てられていることが解ります。

索道やケーブルカーの山頂駅というのは、必ずしも「山頂」にある訳ではないので、これは観光で訪れた利用者、特に高齢者にとって親切な設計だったのではないでしょうか。


山頂に遺る発着所の基礎。

ここを訪れたのは快晴の土曜日。山頂までのハイキング道はよく整備されていて、展望台からの伊勢湾の眺めも素晴しいものでしたが、ここから目と鼻の先にある夫婦岩は大勢の観光客で賑わっているというのに、この「むかし海外スキー情報があった山」に、人影はありませんでした。

景勝地や温泉地近くの、山頂まで徒歩で15〜20分くらいの小さな山に旅客輸送の手段というより、ロープウェイそれ自体を目的として架けられた索道 − 二見浦ロープウェイは、戦後のレジャーブームの時代に全国各地で建設された観光ロープウェイの始祖的な存在と言えるのかも知れません。


すっかり夏草に覆われた発着所の基礎上部から山麓駅方向を望む。

次回は、戦前の索道廃線全般を紹介する予定(未定)です。


>索道データ
>名称 >二見浦ロープウェイ(*注3) 
>事業者 >二見浦旅客索道 
>所在地 >三重県伊勢市 
>山頂駅名称 >N/A 
>山麓駅名称 >N/A 
>開業 >1932年7月  
> >1942年 
>索道の方式 >3線交走式 
>傾斜長 >290m 
>高低差 >109m 
>支柱(基) >1 
>搬器の種類・数 >箱型 2  
>搬器の名称 >N/A 
>最大乗車人数 >21人 
>施工 >東洋空中索道 
>
*注1
中村隆英の「昭和史」掲載の統計によると、戦前の国民1人当たりの食品・衣料・燃料供給指数は100を上回っている。また、GDP(国内総生産)、GNP(実質国民総生産)はそれぞれ1956年(昭和31年)に戦前の水準にもどるまで、終戦(1945年)から10年以上を要している。

*注2
通称:朝熊山ケーブルカー:1925年開業・1944年休止・ 戦後廃止。なお、朝熊登山鉄道鰍ニ、二見浦旅客索道は同じ人物が興した企業。

*注3
なぜか事業者名称の「二見浦旅客索道」の名で紹介される場合もある



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