ヨーロッパの高級スキーリゾート

  
奈良時代の高僧・行基により発見されたといわれる石川県加賀市の山中温泉は、松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れ、山中漆器や「山中節」を舞う艶やかな芸妓衆でも知られる伝統と文化の息づく温泉地。

山中温泉ロイは1959年に山中町によって架設された索道で、山中町の編纂による「山中町史 - 現代編」はその来歴を以下のように伝えています(改行は管理人)。


昭和三十二年ころから全国的に従来の歓楽型温泉地から健全な観光地への転換を迫られ、隣接する片山津温泉ではゴルフ場、山代温泉ではヘルスセンターの建設が進められた。

山中温泉では平地の少ない立地条件から、古くから住民に親しまれていた水無山山頂からの眺望を活かすこととし、当時は珍しかった索道の架設を計画、関係諸団体の協力のもとに建設に着手、全長六二〇メートル、定員二十名、三線交走式の町営ロープウエーが昭和三十四年一月に開通した。開通後三〜四年はスキー場の併設もあって宿泊客の利用も好調で、日帰り客にも親しまれていた。

しかし、ロープウエーの全国的な普及による希少価値の低下と、山麓駅までのアプローチの悪さなどから営業成績の低下を招き、さらに経営の硬直化も加わって、昭和四十一年十二月、名鉄系列の「株式会社山中温泉ロープウエー」へ経営を移譲した。その後、民間経営による努力にもかかわらず、昭和五十年代に入り休業の止むなきに至り廃業となった。
− 引用終わり


引用文からも感じられるように、それまで「大人の温泉街」でもあった山中温泉は、索道事業の開始とともに、アウトドアスポーツであるスキーに着目。

イメージ転換の期待を込めて水無山の山頂にスキー場を建設しました。この背景には昭和30年代の第二次スキーブームがあるように感じます。

例えば、スキー場のTバー・リフト自体が滑走式索道という区分そのものであるように、索道とスキーは表裏一体の関係を保ちながら発展を遂げてきました。

爆発的なスキー人口の増加をもたらした、昭和末期から平成バブル期の第三次スキーブーム以前も、国内では2度の大きなスキーブームがありました。ひとつは戦前の昭和初期、そしてもうひとつが山中温泉にスキー場が開業した昭和30年代です。


山中温泉組合のパンフレットより(上・下)

1956年(昭和31年)にイタリアで開催された、コルチナ・ダンペッツォ冬季オリンピックでの猪谷千春選手の日本人初の銀メダル獲得(男子回転)に国民は熱狂。


さらに同大会で三冠に輝いた伝説のスキープレーヤー、トニー・ザイラーが俳優に転向して蔵王で撮影された映画「銀嶺の王者/1960年」が公開されると、トニーの人気も手伝って国内にスキーブームが訪れます。

戦前の第一次ブームの頃のスキーは、レジャー色よりスポーツ色が濃く、特定の地域を除いてスキー場の数も少なかったため、山スキーの比率が高かったようですが、この時代からゲレンデスキーが主流になり全国各地で次々とスキー場開発が始まります。

水無山スキー場は比較的早い時期に開業したため、開業後数年間は順調に利用客が訪れたそうです。また、山頂には小規模ながら観覧車・遊覧電車などの遊具を備えた遊園地(水無山山頂遊園地)や、展望台・レストランなどの施設があり、昭和30年代はかなりの賑わいをみせていたようです。(ダイゾウさんのサイト、全盛期の水無山遊園地の貴重な写真を見ることが出来ます。)

しかし、昭和40年代に入る頃から、近郊にあり設備の充実した獅子吼高原や、1970年(昭和45年)以降に白山麓に相次いでオープンしたスキー場群*注1に利用客が流れ、1978年(昭和53年)10月、ついに索道が運休、スキー場も休業に入ります。左上のパンフレットの写真は索道、スキー場ともに末期に近い昭和50年頃のものです。

やがて1981年(昭和56年)4月に名鉄、山中町、山中温泉旅館共同組合の出資会社である山中温泉ローは名古屋陸運局に正式に営業停止届けを提出し、20年近く山中温泉観光のシンボルとして活躍した索道はその姿を消しました。



訪問記】 2007年12月

現在、水無山にあった駅舎は山頂・山麓とも完全に撤去されていますが、山頂には駅舎と連絡していた展望台がそのまま残されています。未だに展望台としては微妙に機能しているとも言えそうですが、やはり遺構と呼んだ方がふさわしい佇まいです
(写真@)。

展望台の写真にマウスを乗せると、山頂駅との連絡部分の写真に変わります。駅舎があった写真中央奥は深い藪で、遺構は何もありませんでした。

山頂遊園地があった場所には遊具施設関連と思われるコンクリ塊が所々にあり、藪の中に遊覧電車のトンネルらしき遺構が残っていました
(写真A)

山麓駅の名残として、医王寺そばの薬師橋の脇に山麓駅舎へのアプローチだったと思われる階段が残っています(写真B)。

階段を上りきった所は行き止まりの小さなスペースになっていて、そこには赤錆びた照明灯と水飲み場(噴水?)の遺構が残っていました(写真C)。

山麓駅は2つの建物(発券所・ゴンドラ発着所)で構成されていたようで、ここは発券所の建物があった場所のようです




写真@


写真A


写真B


写真C
写真の左奥が発券所があったと思われる場所。(マウスを乗せると遺構の写真に。)

なお、山頂の北側にあったゲレンデは、道路一本分を残して深い藪と潅木(植林された様子)に覆われていて、一基あったというリフト(水無山スキーリフト:1958年架設)の位置も判然としません。見たところコース長300mにも満たない、とても小さなゲレンデだったようで、歩いてみた感じでは傾斜は10〜20°くらいの初中級向きゲレンデだったと思われます。


今回の訪問では最初、山麓駅舎の位置が判らず、医王寺の周りをウロウロしていると、ちょうど近所の方が駐車場に車を入れているところに遭遇したので尋ねてみると、「下の駅へは、お薬師さん(地元の人は医王寺をこう呼ぶ)の階段から真っ直ぐ行って少し降りたところから登ったんや。」と教えてくれました。

私が調子に乗って持参した古い地図や空中写真(笑)のコピーなどを取り出して色々とロープウェイのことを尋ねると、その方は親切に教えてくれ、最後に「なんだかずいぶん変わった研究しとるようやね。」と言って笑っていました。


毎回この「へんてこ過ぎる質問」を地元の人にする時が一番恥ずかしいです;

索道データ
名称 山中温泉ロープウェイ
事業者 山中町→民営化(且R中温泉ロープウエー)
所在地 石川県加賀市
山頂駅名称 水無山
山麓駅名称 山中温泉
開業 1959年1月20日
1981年
索道の方式 3線交走式
水平長 623m
傾斜長 667m
高低差 222m
支索の最急勾配 34°
支柱(基) 4
搬器の種類・数 箱型 2
搬器の名称 きんじし/しらさぎ
最大乗車人数 21人
施工 安全索道

*注1
鳥越高原大日(1970年開業)・白山白峰(1971年開業)・白山一里野(1977年開業)

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