失われたロープウェイ
廃止索道
大鰐スキー場

 ホワイトエンジェル(大鰐温泉スキー場)*休止線

岩木の颪(おろし)が 吹くなら吹けよ
山から山へと われ等は走る
昨日は梵珠嶺(ぼんじゅね) 今日また阿闍羅(あじゃら)
煙立てつつ おおシーハイル

−シーハイルの歌(作詞/林征次郎・作曲/鳥取春陽)

厳しい寒さの中の山スキーの情景が目に浮かぶこの曲は、1929年(昭和4年)に作られ、のちの1960年(昭和35年)にレコード化されて全国に広まり、歌声喫茶*注1・山岳会・学生スキー部などを中心に盛んに歌われた曲。

歌詞の中の「阿闍羅」は青森県・大鰐(おおわに)町の大鰐温泉スキー場の、あじゃら山(標高:709m)のこと。ちなみにシーハイル(Schi heil)とはドイツ語で「スキー万歳」という意味で、ヨーロッパの古いスキーの挨拶言葉だそうです。

大鰐国体 1990
大鰐にとって4度目の国体となった第45会冬季国体の告知TC

1923年(大正12年)開業の大鰐温泉スキー場は、競技スキーの名門として全国的に知られるスキー場。

FIS公認のコースを持ち、冬季国体開催4回、全日本選手権開催15回、そしてインターハイ、インカレ、全中などスキーの全国大会が数多く開催され、同じ東北の鳴子スキー場の先輩格にあたるスキー場です。

大鰐温泉スキー場
エリアがひとつだった1979年頃のゲレンデマップ。
-出典:オールスキー場完全ガイド'80 立風書房/1979年

大鰐にとって3度目の冬季国体(1977年)が開催され、翌78年から4年連続で全日本選手権が開催された1981年、大鰐町はスキー場の拡張に着手。1982年に第二スキー場(のちの高原エリア)に第5リフト、85年に第6ペアが完成し、スキー場の規模は第一スキー場単独の時代のほぼ1.5倍になり、のちのスキー場最盛期の原型が出来上がります。

大鰐温泉スキー場
第二スキー場が出来てエリアが2つになった1985年のゲレンデマップ
-出典:オールスキー場完全ガイド'86 立風書房/1985年



それから2年後の1987年、バブル景気の幕開けと同時に、町に大規模なリゾート開発の話が持ち込まれます。それは開湯800年の歴史を持つ大鰐温泉郷を、温泉を中心とした一大リゾートにする、というものでした。

計画の手始めとして、スキー場の設備をさらに充実させることになり、第一スキー場の第1リフトを、当時青森県下では初の高速クワッド*注2に架け替え、第二スキー場に第7ペアを新設します。

翌89-90シーズンには大鰐にとって4度目の国体である第45回冬季国体の開催に合わせて、高原エリアの山麓とあじゃら山頂間のキロ程2223mを結ぶ6人乗りゴンドラリフト、ホワイトエンジェル(あじゃら高原ゴンドラ)が運行を開始。第一スキー場は大鰐国際スキー場、第二スキー場は、あじゃら高原スキー場と呼ばれるようになります。

ゴンドラの完成によって、山頂から高原中間部までの3本コースと2基のリフト、エリア間を山頂側で結ぶ連絡コースもオープン。スキー場の規模は第一スキー場単独の時代の2倍となります。

ゴンドラをはじめとした輸送能力の高い索道の導入効果もあり、同シーズンのスキー場利用者は過去最高の38万人にのぼりました。

大鰐スキー場 高原エリア 国際エリア
最大規模だった1996-97シーズンのゲレンデマップ(左上の山頂に向かう長いラインがホワイトエンジェル)。
- 出典:るるぶスキー'97 JTB出版/1996年

しかし1992年にバブル経済は崩壊。大鰐にとって痛手となったのはリゾート開発のメインとして巨費を投じて建設した巨大温泉リゾート施設(造波プール・クアハウス・熱帯植物園・屋内型キャニオンライド・美術館などを複合した施設で1996年にすべて閉鎖)でした。

拡張後も黒字を出していたスキー場も、利益はリゾート施設の生んだ赤字の補填にまわされることになり、さらに90年代後半からは全国的なウィンタースポーツの低迷と少雪がはじまります。

スキー場は、その後もアジア冬季競技大会の開催(2003年)、リフトの架け替えと大谷バーンのリニューアル(2005年)など、大型スキー場としての機能をなんとか維持していました。

しかし2009年に町が財政健全化団体(後述)となったため、10-11シーズンからは大会バーンがある国際エリアの単独営業となり、高原エリアは休業、同エリアのホワイトエンジェルも運休となりました。

大鰐温泉スキー場国際エリア
現在のゲレンデマップ - 2014-15シーズンのゲレンデマップより


【バブル景気と大鰐リゾート開発】

バブル景気*注3の時代に、全国で行われた「リゾート開発」の多くは、資産価格の高騰が続くことを前提とした、今の感覚で考えると異常とも思えるほど楽観的な見通しで進められていました。

大鰐町に大規模リゾート開発の話が持ち込まれた1987年は、バブル景気の幕開けとされている年で、同年に施行されたばかりの「リゾート法」が拡大解釈される風潮がありました。

大鰐の場合も例外ではなく、町の第3セクターの実質的な経営権を持っていた民間企業がバブルの崩壊で手を引いてしまうと、3セクの債務を補償する契約を結んでいた町が債務を肩代わりすることになります。

巨額の債務を負うことになった町が、2009年に財政破綻の一歩手前である「財政健全化団体」となった頃、大鰐町は「第二の夕張市の最有力候補」といわれていました。大鰐の事例はTVの地方財政問題の特集番組でもよく取り上げられ、今回のレポートを書くにあたって参考にした同年発行の本も、町に課せられた果てしない債務返済の将来を、非常に悲観的なトーンで伝えています。

しかし今年(2015年)の秋、大鰐町は、目標としていた2021年より7年も早く財政健全化計画を達成、財政健全化団体から脱却しました。

下のリンクはそれを伝える2015年11月29日の産経ニュースの記事。

青森発 財政健全化団体脱却の大鰐町、官民一体で基盤強化

財政安定への最初のステージをクリアした大鰐町では、昨年(2014年)から、2006年以降途絶えていたスキーの全国大会(全中)が8年ぶりに復活。今年はインターハイが開催され、2016年もインカレが開催される予定です。

バブルが崩壊した時、程度の差はあっても日本の至るところで問題が起き、そこには当事者たちの深い痛みや苦しみ、葛藤などがあったはずです。

しかし、それも長大な時の流れの中では、ほんの1ページの出来事であり、復旧への努力を続けるうちにやがていつかは「狂乱の時代の記憶」となっていく、そういうことではないでしょうか。

あじゃら高原ゴンドラ
ホワイトエンジェル     -出典:スキーリゾート大鰐2008

【参考資料】



【訪問記】 2015年2月

「スキーと温泉の町」大鰐へは以前からいつかは行きたいと思っていましたが、自宅(横浜)から車だと高速を使っても8時間以上という遠さ。ずっと先延ばしにしていました。

しかし今回、飛行機とレンタカーで行ってみると、ドア・ツー・ドアで2時間強という、拍子抜けするくらい短時間でゲレンデ到着。車で最寄りの(といっても群馬県ですが)スキー場に行く場合と変わらない時間で現地に着くことができました。

営業中の国際エリアはスキー場開設時からあり、多くの大会がおこなわれてきた伝統のエリア。その佇まいも「シーハイルの歌」のイメージと重なる、津軽の質実剛健なスキー場、といった趣きです。

雨池スキーセンター
国際エリアのセンターハウス(雨宮スキーセンター)

国際エリアのセンターハウスの2階の一画は、スキー資料館のようになっていて、町のスキーの歴史と、町が生んだヒーローたちのパネル展示があります。また、国際ファミリーリフトの中間停留所近くには、スキー選手と林業従事者の安全祈願のために1935年に建立された「スキー神社」があり、大鰐町とスキーの関係の深さを感じます。

休止中の高原エリアは、立派なセンターハウスとゴンドラステーションのほか、ハーフパイプやゲレンデを全望できるレストラン、DJブース付カフェテリアなども完備した、リゾートスキー場の名にふさわしいゲレンデだったようです。最近まで営業していたので施設の状態は比較的良く、現在も夏季はセンターハウスをスポーツ施設として町民に開放しているそうです。


休業中の高原エリアのセンターハウス(PLAZA:左)とゴンドラステーション(右)

ホワイトエンジェルの搬器は写真で見る限り、国内では八方尾根やAKAKAN、マウントレースイなどで運行しているものと同型の、3人ずつ背中合わせに乗るタイプだったようです。ゴンドラはグリーンシーズンも運行し、MTBのダウンヒルなどにも利用されていたとのこと。

高原エリアの休業で規模が半分になったと言っても、今年で開業88年の大鰐温泉スキー場の歴史の大半は、本編のマップのとおり、現在の規模だったことになります。1923年から1981年までの競技スキーのメッカと呼ばれた時代のゲレンデに戻った、という感じでしょうか。

−とは言え、休業中の高原エリアにも、山麓側から眺めただけでもかなり良さげな斜面が目白押しだったので、高原エリア未体験の自分的には、できれば再開を望みたいというのが本音ですが。

神沢バーン
神沢バーンすべり出し。左上にうっすらと100名山の岩木山が見える。


索道データ
名称 ホワイトエンジェル(あじゃら高原ゴンドラ)
事業者 大鰐地域総合開発
所在地 青森県大鰐町
開業 1989年12月24日
休止 2010年3月
索道の方式 単線自動循環式
傾斜長 2,223m
高低差 515m
最急勾配 27.38°
最大乗車人数 6人
最大輸送能力 1800人/1時間

*注1 歌声(うたごえ)喫茶
1960年代から70年代前半にかけて都市部を中心に全国で流行した、合唱サークル的な喫茶店。リーダーの先導でアコーディオンや生バンドなどの伴奏にあわせて客が全員でコーラスを楽しむ。唱歌を中心にロシア民謡・歌謡曲・山の歌・労働歌・スタンダードナンバーなどが唄われた。

*注2
現在の国際ファミリーリフトの位置にあった全長864mの高速クワッドリフト、スカイフォー(ペガサス)のこと。

*注3 バブル景気(1987−1991)
1985年の「プラザ合意」による急速な円高の対策として、政府が行った長期的な金融緩和によってもたらされた未曾有の好景気のこと。約4年半続いたバブル景気は様々な社会現象を生むが、資産価格の高騰と金融機関の低金利融資で株式・土地などへの投機が盛んにおこなわれた結果、不良債権が増大し、1990年に金融機関への総量規制が行われたことよって終焉を迎えたといわれている。



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